■10月21日「火曜日 PM7:00〜9:00」
指揮者の山下一史「かずふみ」先生が急遽来県されて私達のレッスンをみて頂けることになった。
当初の予定では、初顔合わせはリハーサル直前の11月22日であり、全く予想もしていなかった初レッスンとなった。
おそらく山下先生も、私達の合唱が、レクイエムの出来具合が気になり、一度聞いて見たかったのではなかろうか。
11月の指揮者との初レッスンを待ち遠しく思っていた私には本当に嬉しいレッスンであり充実した2時間だった。
合唱も含め、音楽は指揮者によって大きく変ってくる。
同じ曲でも解釈の仕方で表現方法が微妙に異なってくると思う。
本番で指揮者を見ることのできない私にとって、レッスンでの先生のアドバイスの一つ一つが曲作りの貴重な情報となる。
山下先生がレクイエムをどのように表現しようとされているのか、合唱団にはどのように歌ってほしいと考えておられるのか、曲のテンポは、音の延ばし具合は…
先生のアドバイスを聞き逃すまいと私は耳をダンボにして、そして、いつもに増して真剣に歌った。
先生の表現しようとする音楽に少しでも近づき、共にレクイエムを作り上げていきたいと思う。
レッスンは第1曲のレクイエムから始まり、最終のルクス・エテルナまで通して行なわれた。
音符の一つ一つについて、何故、この音なのか、この長さなのか。
子音を大切に歌うこと。歌詞の意味から発声法や表現の仕方。
ピアノやフォルテの歌い方や表現の仕方…
先生の指摘は詳細なところにまで及んだが、そのレッスンは丁寧で優しく、私たちにも分かりやすいものだった。
私が一番印象に残ったのは、「語りかける」という言葉だった。
私達の合唱は、譜面上の音符を単に歌っているだけと言われる。
音は美しいが、何も感じるものがないとのこと。
聞いている者に対して、働きかけるもの、呼びかけるもの、訴えるもの、曲の思いを表現してほしいと言われる。
それが、「語りかける」という歌い方であり聞いている人を感動させる音楽だと言われる。
う〜ん、なかなか難しい〜
■10月28日「火曜日 PM7:00〜9:00」
■11月4日「火曜日 PM7:00〜9:00」
■11月11日「火曜日 PM7:00〜9:00」
環境が変ると何と歌いにくいものなのだろうか。
先週は、高岡青年の家の能舞台ホールで電子ピアノを持ち込んでレッスンが行なわれたが、ピアノ音が全く聞こえずで歌いづらかった。
今日は通常通りのステージ練習だったが、レッスン開始時間に少し遅れたために、いつもの前の席ではなくて最後尾に座ることになってしまった。
最後尾に座るのは、ほとんど初めて。
パートの声が聞こえない!目の前に座っている人の声さえも聞こえないのだ!おまけに、伴奏のピアノも聞き取りにくいのである。
これでは、見えない私にはテンポの取りようがない。歌い出しのタイミングも遅れ気味となり、曲全体が、ずるずると遅れていくように感じた。
やはり、前に座らせてもらうべきだった。
前ならば、パートの声はもちろんのこと、息遣いまでもが聞き取れるので、たとえ 指揮者が見えなくともタイミングを合わせることが出来る。
それにしても、途中から私の横に座った方の声は素晴らしかった。
声量といい低音の響きといい、圧倒的な迫力「私の2・3倍ほどにも感じたな」で、あれこそ、「ベースの声」と感じさせられるものだった。
「なんと、うらやましい…」左耳で、彼の響きに聞き惚れながら歌っていたので、こちらは、大いに音を外してしまった。
全体練習も残すところ、あと2・3回である。
■11月22日「土曜日 PM1:00〜4:00」
指揮者の山下一史先生が来られ、午後からの特別レッスンが行なわれる。
発表会を一週間後に控えて多くのメンバーが出席していた。メンバーの一人一人にも気合が入ってきたようである。
「モーツァルトを ただ歌っているだけではなくて、その核心に少しでも触れて欲しい」 先生の言葉が印象的だった。
だが、これは容易ではないだろう。私達は今ようやくモーツァルトが歌えるようになったという段階である。
「核心」に触れるには、まだまだ学習と歌い込みが必要と思われる。
歌詞の意味や楽譜の解釈も欠かせない。
私は、このレクイエムを毎年のように歌いたい。せめて、来年にもう一度と言う気持ちである。
先生の指摘は詳細であり、発表会に寄せる熱意が感じられる。
■11月24日「月曜日 PM1:00〜4:00」
4月15日の結団式から積み重ねてきた40回に及ぶレッスンも最終となった。
本番を指揮する山下一史先生の2回のレッスンを振り返りつつ、指摘を受けた箇所のチェックを行なった。
今日までに、出来たことも出来なかったことも幾つかあるが、私達は確かに進歩した、上手になったと思う。
1ヶ月前に比べても、全員が自信を持って歌っているように感じられる。
後は29日のリハーサルを残すのみとなったが、欲を言えば もう2・3回の集中レッスンがあれば良かった。
この頃になって気付いたのだが、歌う練習は何よりも大切だが、自分達の歌っている声を聞き返すことも必要のように思う。
自分の録音テープを聞いてみると、言葉の発音が不明瞭なことや、歌い出しの声が揃っていないことなどに気付かされる。
時々は聴衆者の立場で合唱を考えてみるのも必要な機がする。
オーケストラとのリハーサルで、どこまで詰められるか、どこまで歌えるかである。
■11月29日「土曜日 PM6:00〜8:00」
合唱団リハーサル。オーケストラとのリハーサルに備え、5時30分から全員で声出しを行なった後にステージへ。
既にステージには5段ほどの雛壇が組んであり、これに上がる。
各パートの位置関係やメンバーの並び順などを確認する。
改めて、男声の少なさに驚く。僅かに20数名である。
オーケストラとの合唱は上々とは言えなかった。
レッスンで耳慣れしているピアノと、初めて耳にするオーケストラとの違いが大きいように思う。
オーケストラの音はピアノに比べると広がりがあり余韻が残る。
そのために、歌が間延びしてしまいリズムが遅れ気味となってしまう。
オーケストラの音が耳になじんでいないといった感じだ。
私にとって一番残念なのは、ラテン語がわからないことでも楽譜が読めないことでもない。指揮者が見えないことだ。
タクトの動きがわからないことだ。
指揮者の目の動きや顔の表情がわからない。
手の動きなど、身体全体を使って曲を表現しようとする彼の動きがわからないことが悲しい。
音楽を、合唱を作るのはオーケストラや私達合唱団との共同作業ではあろうが、何よりも、指揮者の影響力が最も大きいと思われるからだ。
指揮者の動きが判断できないために歌い出しが遅れてしまう。
飛び出しに注意するあまり、オーケストラやパートの声を聞いてから発声するからだ。
休符の長さやピアノやフォルテ、マルカートやレガート、クレッシェントにフェルマータなど、音符以外の曲作りの重要な部分の表現は識者によって微妙に違ってくる。
極端に言えば、同じ指揮者でも、ステージによって表現も変るにちがいない。
ステージは動いている。
合唱も変化している。
音楽は生きているかのようである。